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2012年3月28日 (水)

近代における欲望する人間と情報の全面化

共同体を駆動するあらゆる力は、差異化されつつ、生存源泉と生存志向の狭間に出現するのであった。この狭間は自明なるものが突如出現する深淵である。が、そうして出現した自明なるものが生の土台を形作り、自生的自明性を成す。(「実践的差異と自生的自明性」)。さて、この自生的自明性が構成的自明性に取って代わられるところに近代が現れる。そこをさらに見ていこう。

■異質化による形象的世界の出現

共同体の中では多くの力の流路が張り巡らされている。人々はそのつど何らかの力の流路と接続する。ただ、そのとき、流れ入る力は一旦切断され、その上で受容されるのであり、受容された力は各人に固有な力の集積を通過することにより、差異化されるのであった。さて、問題はここなのだ。もし、流れ入る力が切断されたままで、受容されなかったとしたら、どうなるのか?

各人の内には固有な力の集積がある。だから、流入してきた力は一旦切断され、受容され、差異化される。が、受容が可能なのは、流入してきた力と集積された力の間で、何がしか共振するものがあったからであろう。共振も共鳴もしないのであれば、その力は受容しようがない。

流入してきた力が、一度も集積されたことのない力であれば、共振も共鳴もしようがない。たとえば、全く見知らぬ共同体と出会ったとしよう。彼らは見たこともない儀式を執り行っており、しかもそれに加わるように言ってきたとしよう。さて、どうするか? うかつに加わったら危害を加えられるかもしれない。礼を失するようなことをして関係を悪くするかもしれない。逆に、加わらないことによって関係を悪くするかもしれない。

触知的な眼差しによっては何も見えない。見も知らぬ他者であり、どんな儀式かやったこともなく、自明性を、力を共有していないからだ。とすれば、力の共有なくして事態を認識しなければならない。それはもはや触知的な眼差しではない。眼差しは力から自立化しなければならないのだ。

力を受容できない状態を、力の差異化に対して、力の異質化と呼ぼう。受容されたなら、力の集積を通して差異化される。しかし、そもそも受容されないなら、差異化されようがない。むしろ、それは全く異質なものとして拒否されるのだ。これが異質化なのである。そして、ひとたび異質化されたなら、力が共有されないがゆえに、触知的眼差しは役に立たない。眼差しは、力から離れて事態を見て取らねばならなくなるのである。

それは純粋なる眼差しであり、見ることの純化である。では、力を見ないなら一体何を見るのか。それは、純粋な形である。

そもそも、見ることは形を見ること以外ではない。しかし、触知的眼差しは少し異なる。たとえば、痛みを感じ、痛いと認識する場合を考えてみよう。痛いと感じることは決して見て取ることではない。それは直接的な身体感覚である。が、それを「痛い」と認識しするなら、身体感覚は言葉にもたらされている。そして、言葉になっている以上、「痛み」という概念が成立しているのであり、その限りで形になっているのである。つまり、名状しがたい身体感覚は言葉を通して形とされたのである。

力は本来触覚の隠喩によって語られるべき種類のものである。それゆえ、それ自体いかなる形も持っていない。しかし、触知はそれを言葉にもたらし、概念にもたらし、それゆえ形にする。つまり、触知的眼差しは形なき力を形に造りなおすのだ。本来形をもたないはずの力を形しにしてしまう。本来触覚の隠喩にしか属さないものを、視覚の隠喩へ引き入れるのである。だから、触知的眼差しは力との相関においてしか成り立たない。

これに対し、純粋な眼差しはもはや力との相関のもとにはない。力から完全に切り離されている。とすれば、その対象は、初めから形なのだ。すべてが初めから形として見て取られる世界。それが純粋なまざしの対象領域である。触知的世界に対し、形象的世界。それは触知的世界とは全く異なる世界である。始めから終わりまで、ただ形だけが問題となる世界、それが形象的世界なのだ。

しかし、それはそもそも哲学の領域そのものではなかったか? 哲学は本来「見る」ことときわめて関係が深い。ギリシャ語で「見る」ideoの系統の語は2つあるらしい。一つはideinであり、いまひとつはeidoである。いずれも「見る」という意味であるが、前者に由来するのが、ideaであり、「形」を意味し、後者に由来するのがeidosであり、やはり「形」を意味する。ideaが主にプラトンが用い、eidosは主にアリストテレスが用いたが、アリストテレスはプラトンのイデア論を世界に内在するものとして読み変えた側面があり、イデアと言おうが、エイドスと言おうが、要するに形こそがその中心を成すのであり、「見ること」が決定的な特権をもつのである。

その意味で哲学の領域は初めから形象的世界であった。いや、むしろ哲学にとっては世界は形象以外の何ものでもなかったと言うべきであろう。形象の世界だけが真の世界であり、形象の度合いが低下すれば低下するほど、虚偽に陥るのである。純粋な形象こそが真理なのである。

おそらく近代とは、この形象的世界の全面化なのである。古代から中世にかけて、哲学の中心が形象にあったことに間違いはない。しかし、同時に土着の世界があり、またキリスト教の世界であった間は、人々の暮らしの次元にまで形象的世界が全面化することはなかった。しかし、近代は違う。その全面化が起こったのである。

その中心となるのが、「情報」であった。

■形象的世界と情報

情報とは言うまでもなく、informationである。これはラテン語の「informare」が語源であり、これは「心・精神に形を与える」ということを意味していたらしい。というのも、そもそもラテン語のformがギリシャ語のeidosやideaに相当して、形を意味しているのである。つまり、formはギリシャ語のeidosやideaと同等の意味をもっており、そこからinformareが由来し、それがinformationになっているのである。その意味で「情報」はギリシャ哲学の正統な嫡子と言える。それは形を人の心に与えるものであり、その中心は形象にあるのである。

近代が形象的世界の全面化であるとは、他でもない、情報の全面化を意味しいている。近代は情報化していくことによって、形象的世界を全面化していくのである。

先の例をもう一度思い起こそう。全く見知らぬ共同体と出会い、見たこともない儀式に加わるように言われ、共有する自明性がないがゆえに全く判断がつかないとき、唯一頼りにすべきはおそらく情報なのである。

見たこともない儀式について調べ、それが何を目的としており、参加して何をすることになり、それが自分たちにどのような結果をもたらすことになるのか、それを正確に知ること、それが何より重要であろう。その情報が手に入れば、その儀式に加わるべきか、加わるべきでないか、判断ができるであろう。

そのとき、儀式がもたらす諸力をあらかじめ受容する必要などない。見知らぬ共同体と前もって自明性を共有する必要もない。そうした力の共有から完全に自立化し、身を引き離し、その儀式を客観的に(とはつまり、純粋な形象として)見て取ることだけが重要なのだ。それによって「事実」が浮かび上がる。そして、その事実に基づき自分たちのとるべき行動の判断をするのである。

このように、力を受容できず、拒否し、異質化することによって、触知的眼差しは自立化し、純粋に形象的な眼差しとなる。こうして世界は形象化されるのである。

しかし、この形象化は前近代的な世界においても見出されるものである。ただ、前近代においては、形象化は触知的世界の中に伏在していたと言っていい。前近代的な世界は、基本的に触知的世界である。触知的なるものが土台を成す世界である。が、上に見たように、その中でも異質化が発生し、触知的なものから離れ、情報が必要とされる事態が起こる。そのとき、触知的世界の中に形象的なものがさまざまな仕方で現れるのである。

もちろん、触知的世界であろうと、ごく単純な意味での事実を知る必要はいつでも生じ得る。共同体内で先祖を祀る重要な儀式があるというとき、それに加わろうと思えば、いつどこであるのかというきわめて単純な事実を知る必要がある。そんなことは、いつの時代でもごく日常的にあることだ。重要なことはそうしたことではない。いつどこであるのかという情報が必要となるのも、そもそもその儀式の何たるかを触知的に知っており、それに参加すべく駆動されているからである。問題は、そのような触知的世界を覆すような性質の情報なのだ。そして、それは異質化によってもたらされるのである。

だが、そもそもなぜ異質化が発生するのか? もちろん、自明性を共有できないからであるが、どのような場合に自明性が共有できなくなるのか? ポイントはおそらく生存志向にある。

そもそも、生存源泉は自明性を共有さしめ、共同体を一体とする根源的力であった。しかし、生存志向は逆に生の形を得るために人々を闘争させ、分離さしめる力であった。人は自分の望ましい生の形を得るため、より有利な立場に立つため、より多くの利益を得るため、互いに争う。そのとき、互いの間に共有されているものは機能しない。同じ共同体に属しているなら、神々や先祖や伝統などを共有しているはずであろう。しかし、望ましい生の形を得ようとする志向が強ければ、それらの共有されているはずの自明性は力を失う。生存志向と生存源泉の間に亀裂が走る。ここにおいて異質化が大きな地歩を占めることになる。

とは言っても、前近代においては、生存源泉の力はいまだ強い。生存志向が全面化することはない。しかし、それが、近代において全面化するのである。われわれが社会契約論に見たのは、そのことなのだ。

■未来と変化と富の増殖を欲望する人間類型の出現

われわれはすでに生存志向が全面化するプロセスをヨーロッパの近代化の中に見た。まず、11世紀頃からの叙任権闘争を通して聖なる世界と俗なる世界に境界線が引かれ、神の支配の及ばない、人間が自由に欲望を追求できる世界が現れた。(「叙任権闘争による神なき人間世界の始まり」)。そこでは、とりあえず聖なるものに囚われず、俗なるものを俗なるものとして欲求できるベースが生まれてくることになる。

同時に1096年に始まる十字軍をきっかけに交易が活発になり、自給自足から貨幣経済への変化が起こり始める。(「貨幣経済の発達と変化という近代の本質」)。見知らぬ共同体間で交易をおこなうには、等価交換をしなければならず(壺1つに対して穀物どのぐらいと交換できるの?ということ)、そのために貨幣による媒介が必要となった。だが、それだけではない。当初、モノとモノとの間に貨幣による媒介がある(商品→貨幣→商品)状態であったが、それが、貨幣と貨幣の間にモノによる媒介がある(貨幣→商品→貨幣)という状態へ進化することになる。つまり、手持ちの商品を貨幣によって交換するのではなく、手持ちの貨幣を商品の交換によって増殖させるということが生じるのである。マルクスによれば、これこそが資本主義の始まりである。

米を魚と換えてほしいから貨幣を媒介とした交換を行うというのではなく、貨幣をもっと増やしたいから米を売ってより多くの貨幣と交換する。こうして、貨幣の増殖が始まるのであり、この増殖する貨幣のことを特に資本と呼ぶことになる。単なる交換の手段としての貨幣は資本でも何でもない。元手となってより多くの貨幣に増殖する貨幣、それが資本なのである。

こうして無限に富を増やすということが人間の行動のベースとなっていく。貨幣経済とは、単に物々交換から貨幣を媒介とした交換への変化を意味しているのではなく、貨幣を無限に増殖させていく経済のあり方への変化を指すことになる。聖なるものから解放され、俗なるものを欲求できるという変化の上に、富を無限に増やすというエートスが折り重なっていく。こうして人間の欲望は解放されていくのである。

さらにそれに拍車をかけたのが宗教改革であった。ヨーロッパ中世は創造による神の秩序という過去設定を何より重視する時代であった。神が定められたもの(したがって、過去)を勝手に変えてはならないというわけである。それに対し、創造の秩序を罪によって台無しにされたものと見なし、終末における罪の贖い(したがって、未来)こそを最重要と考えたのがプロテスタントであった。いまや過去は罪として裁かれるべきものとなり、代わって終末における救いという未来こそが何より重視されねばならないものとなる。

過去はもはや否定されるべきものである。したがって、過去にこだわることは何もない。重要なのは未来だ。未来へ向かって過去を変えていっていいのだ。未来と変化こそに価値がある。これこそが宗教改革が生み出したエートスと言える。富を無限に増やすというエートスを未来と変化という価値がいっそう駆動することになるのである。

かくして、11世紀から17世紀ぐらいまでの大きな変化の中で、神から解き放たれ、未来と変化を志向し、富を増やすという欲望を徹底的に追求するというタイプの人間が現れる。この人間類型こそが近代という時代を生み出すことになるのである。

そして、こうした人間類型をベースにして形成されたのが社会契約論であった。アリストテレスにとって人間の本性(自然状態)は、ポリス的であることであった。つまり、人間は自然本性として国家という共同体を形成するようにできているのである。自然状態で放っておけば、国家を形成してしまう、それが人間だというのである。(「アリストテレスの国家観の再移入から社会契約論へ」)。

それに対し、社会契約論は、自然状態を孤立的なものと見なす。ホッブスは生存のための闘争状態と考え、ロックは労働主体による自由と平等と見なし、ルソーは野生人の自己愛と哀れみによる単発的関係と考える。いずれにせよ、人間の自然状態は国家形成以前の孤立的状態なのである。(「社会契約論における自然状態」)。

これは他でもない、上の人間類型を前提としている。未来と変化を志向し、富を増やすという欲望を徹底追求する人間。実際上はともかく、このタイプの人間を純粋に類型化すると、それが異質化を前提としていることが分かる。富を増やすことこそが第一義的に重要である人間にとって、他の人間はすべてライバルだ。欲望を徹底的に追求する人間にとって重要なのは自分の欲望だけである。それが実現されるために必要とあらば他者と共同もしよう。しかし、それを邪魔するなら他者は敵である。自分の欲望実現のために生きる限り、基本的には他者はすべて敵だ。味方になるのは互いの欲望実現にとって共同が利益になる場合だけである。

この敵という他者との間では、自明性の共有が第一義的に機能することはない。たとえ、同じ神を信じていようと、同じ血族に属していようと、同じ郷里の出身であろうと、ひとたび富の追求競争となるや、そんなことは関係なくなる。みな基本的には敵なのだ。同質性が機能するのは一定の限界点までである。その限界を越えると、互いに敵であるという異質性こそが関係性を支配することになる。

この異質性をホッブスは文字通り闘争状態と捉えた。それに対し、ロックはそれを自由と捉えるとともに、欲望追求の権利が万人に開かれていることを平等と捉えて、積極的に評価した。ルソーは本来の自然人においてはそもそも欲望追求は第一義ではなかったのに、それが土地所有等によって破壊されることによって欲望追求を第一義とする人間が現れたと捉えた。いずれにせよ、富の追求を第一とする人間どうしの異質性、それこそが近代のベースを形成することになる。

こうして生存志向はもともとの自生的自明性から脱却することになる。同じ信仰や同じ血族、同じ郷里といったことをベースにした同質的な関係性から脱し、富の追求という異質性を中心とした関係性が形成されることになる。これが生存志向の自立化である。近代においては自生的自明性のもつ同質性が後退し、異質性こそが全面化していくのである。

では、異質性を前提としたとき、人は互いにどのように関係を結んでいくことになるのか? 自生的自明性が本来の機能を果たさないなら、何をもって互いに理解し合ったり、共同歩調をとったりするのであろうか?

上に見たように、そこで決定的な役割を果たすのが、情報なのである。

■情報、知識、理論

信仰が同じなら、血族が同じなら、郷里が同じなら、あれこれ言わなくとも触知的に理解し合えるであろう。だが、異質性がベースなら、あれこれ言わなければわかり合えないのである。他者の状況、目的、考え方等々、触知的理解から離れて、いちいちそれ自体として知る必要が出てくる。それらを見て取ることをそれ自体として遂行しなければならなくなるのである。

触知に対して、情報が、見て取ることが、形象が決定的な役割を果たすことになる。それまで触知的世界の中に内在化していた形象的なものが、自立化し、全面化し、一つの独立した領域を形成し始める。生存志向の自立化は、同時に形象的世界、つまり情報領域の自立化でもあるのだ。

実際、異質性がベースとなる世界で自分が有利になるように事を展開しようとすれば、他者の動きを客観的に知る必要が生じる。情報が不可欠となる。その情報を得ることによって、今後を予測し、これから起こりうることに備えることができる。

それは、自明性に突き動かされることとは根本的に異なることである。神が命じたもうから為すという場合、結果がどう予測されようと、神を信じて実行するということが何より重要になる。しかし、異質性と情報の世界では、事実を知り、予測し、望ましい結果を得るべく行動することが不可欠となる。なぜなら、それを破砕するような強い自明性の力がないからだ。命じたもう神はもはや弱体化している。ならば、人が事実に即して行動する以外ないのだ。

しかし、それなら、情報だけで十分と言えるだろうか? 確かに、情報はそのつどの出来事や状況を知らせてくれる。が、それは本来、きわめて文脈依存的なもののはずである。つまり、いまここでの状況に強く規定されている。自分たちの計画を敵が阻止しようとしているとき、その極めて限定された文脈の中で、対処に必要な事実をいち早く捉まえなければならない。それは確かにその通りである。しかし、そのことを事前予測することはさらに重要であり、そのためには敵に関するもっと広範な事実を知っておく必要があろう。が、それだけでもない。そうした敵の動きの本質を捉えるためには、地形や天候などさまざまな基礎となる事実も知っておく必要がある。こうして文脈はどんどん広がって、結局、特定の文脈に捉えられない汎文脈的な事実を知る必要も出てくる。

この汎文脈的な事実を「知識」と呼んで、情報と区別しよう。情報は文脈依存的であるのに対して、知識は汎文脈的である。ただし、両者を原理的に区別することはおそらくできない。その区別自体が文脈依存的になるであろうし、それによってその境界線はそのつど動くであろうから。

しかし、もうひとつ、文脈から完全に脱却するということがあり得る。「汎文脈性」に対して「脱文脈性」である。この脱文脈的なものを「理論」と呼んでおく。知識がさらに理論のレベルに達するについては、原理的な問題が重要になる。なぜなら、文脈を脱していると言えるなら、その境界を特定できるはずだからである。汎文脈性は多くの文脈を束ねたような広範さを指す。よって、どれだけの広範さが汎文脈的と言えるのか、線引きは難しい。しかし、脱文脈性は、文脈自体を脱却するがゆえに、文脈と非文脈の区別が生じ、それを特定することが可能であり、それゆえ必要となる。科学における検証可能性などはその典型例と言えよう。

こうして、異質性における形象的なるものは、情報、知識、理論と進化していくことになる。すでに見たように、情報の持つ形象性、つまり、ラテン語「informare」のもつ「form」は、ギリシャ語のeidosやideaに相当しているのであった。そして、eidosにしろ、ideaにしろ、その形象性は基礎づけの秩序を成しており、理性的には理論的秩序であり、内面的には魂の秩序であり、存在論的にはコスモスの秩序であった。情報は形象というその一点において、知識へと、そして理論へと通じているのである。

とすれば、結局のところ、異質性は情報、知識、理論を含む理論性の領域を全面化するとも言えるであろう。それは単に17世紀の科学革命だけを指しているのではない。確かに科学革命は哲学に大きな変容をもたらした。それまで哲学の対象領域であった自然を科学という新しい理論化の方法によって独立さしめた。だが、重要なのはその後だ。自然科学は一つの規範となって、科学を他の領域にも広めるきっかけとなったのである。今日諸科学は、経済、魂(心理)、社会、生命、その他さまざまな領域をその脱文脈的な方法によって理論化しているのである(もとより、どこまでが真に科学と言えるのかは別問題であるが)。

こうして、われわれの卑近性を取り囲むさまざまな事象が理論化されることになった。そして、それらの土台として常に存在しているのが、情報なのである。知識を手にし、理論を得る以前に、われわれは常に情報に立脚している必要がある。情報と事実を土台とするからこそ、知識へと、理論へと進むことができるのである。

その意味で近代においては生活の土台は情報によって形成されていると言っていい。触知的な世界ではなく、情報に媒介された世界こそが近代人の日常なのだ。

■近代に特有な構成的自明性と実践-理論闘争

ならば、自明性はどうなるのか? すべては理論性に支配され、自明性は消滅するのか? そんなことはない。「構成的自明性としての社会契約論」で見たように、ロックにおいては生命、財産、自由は新たな生存源泉として自明なるものと見なされた。なぜ生命が守られねばならないのか、なぜ働いた成果は働いた者の所有になるのか、そのためになぜ人は自由でなければならないのか。そんなことに説明がいるだろうか? 理由付けがいるだろうか? あまりに当たり前ではないか。

確かに近代において、古き生存源泉は次第に弱体化していった。神も、村の掟も、人々の生存の源泉にはなり難くなっていった。しかし、だからと言って生存源泉という自明性が消滅したわけではない。人が生きていくには、生きる意味を生み出してくれる源泉が不可欠なのである。

中世においては働いた成果は地代で奪われ、生殺与奪の権も支配者に握られ、ひとたび農奴に生まれればそこから脱する自由もなかった。しかし、いまや働けばその分は自分の財産になり、農奴であっても商人になることもでき、また生殺与奪の権を握る者もいない。これがどれほどの希望を人々に与えたかは計り知れないであろう。それはまさに生きる意味の源泉であった。生存源泉は近代において新たに形を変えていったのである。

この新たな生存源泉の自明性こそが、近代における自明性の基礎となる。もちろん、生命、財産、自由というのは、自明なるものの一例ということになろう。それだけが近代における自明性ではない。むしろ、近代が変化と未来志向の時代であるがゆえに、自明性がさまざまに形成されるところにこそ近代の本質があると言うべきである。

たとえば、確かに人が自由であることが自明なら、労働者が拘束されるとき、正当な理由がなければならない。それゆえ、労働契約があり、正当な対価が支払われてはじめて拘束が可能となる。それは自明であると同時に、理論的な(理屈に適った)ことでもある。

しかし、他方でそれにまつわる別の自明性が形成されることも考えられる。たとえば、勤勉は美徳であるといったことである。もしそうなら、労働契約に定められたよりも多くの時間を労働に費やすことが奨励されることになろう。そして、その美徳の前では個人の自由も必ずしも重要ではなくなるといったことも考えられるかもしれない。とすれば、自由に基づく理論性(理屈に適ったこと)は後退し、勤勉を美徳とする自明性に基づく理論性が大きな地歩を占めることになろう。

近代においては自明性はさまざまに変転する。前近代のような安定性はない。生存源泉であろうと、生存志向であろうと、さまざまな自明なるものが人々を捉えるのである。なぜか? それは、異質性を基本とする世界では、情報が人々を規定するからであり、その内容によって新たな自明なるものが形成されたり、縮減されたりするからである。変化と未来志向こそが近代の本質である以上、新たな情報が常に自明性を更新していくということがあり得る。事実も現実も、情報こそが形成するのである。

しかし、そのようにして形成された自明性が、今度は逆にそのつどの情報を規定するということが生じる。情報だけではない。さらに知識を限定し、理論を侵食する。一見客観的に見える情報や知識、理論の背後に思わぬ自明性が潜んでいることもあり得るのである。とすれば、情報や知識、理論と自明性は相互に強化し合う循環的関係に入ることもあり得る。特定の情報や知識、理論が特定の自明性を形成し、その自明性がまたその特定の情報や知識、理論を強化し、それがさらにその自明性を強固にする。自明性は変転するとともに、情報や知識、理論を通して、自らを強固に維持していくのである。

このように形成され、維持され、変転していく近代に特有な自明なるもののあり方を、構成的自明性と呼んだのであった。自生的自明性は、その自然発生性ゆえに、形成されることもなければ、情報等によって強化されたり、変転したりすることもない。しかし、構成的自明性は、まさに情報や知識、理論と相互関係に入ることにより、独自の運動をすることになるのである。

もちろん、構成的自明性も、自明性である以上、自明性として機能する。すなわち、理由付けなく人々を捉え、動かす。しかし、その自明性は常に懐疑可能である。情報や知識、理論との循環的な強化関係にある以上、別の情報、知識、理論によって変容されることがあり得るからである。すなわち、構成的自明性は常に批判可能なのであり、また批判されねばならない。なぜなら、妥当と思われる理論性の背後に、妥当とは言い難い偏狭な自明性が潜んでいることもあり得るからだ。

これが実践-理論闘争である。前近代における自生的自明性は決して批判を許さなかった。あからさまに批判する者は共同体の破壊者と見なされたであろう。しかし、近代においては違う。むしろ、構成的自明性は批判されねばならず、批判を通過する限りにおいてのみ、その自明性としての力を保持することができるのである。

このように、近代とは自明なるものが構成的自明性となる時代であり、自明性が不断に批判されねばならない時代なのである。

この構成的自明性の姿をさらに具体的に捉えていこう。

2012年3月25日 (日)

実践的差異と自生的自明性

自明なるものの中で、ひとつ特権的なものがあるのであった。それは生存である。生存は理由もなく出現するという意味で突如性の典型であり、また、それがなければすべては無であるという意味でもあらゆる自明なるものの土台となるのであった。これをさらに見ていくのに、実践的差異について考えていく必要がある。(「生存という特権的自明性」)。

■生存源泉と生存志向の間の亀裂

実践的差異を考えていくに際しては、再び生存について見てみる必要がある。

生存は生存源泉(たとえば神々)を出現とし、生存志向(たとえば地位の獲得)を志向とした。つまり、生存は生存源泉と生存志向が織りなす運動なのである。

その場合、生存志向は生存源泉の力によって規定されるのであった。集団の中で地位を手に入れようとするにしても、神々の意志を無視してはできない、ということである。だが、注意が必要だ。人間はそれほど素直ではない。神々の力に捉えられていると言っても、その仕方は人それぞれで異なるだろう。集団全員が判で押したように同じ捉えられ方をするわけではないのである。忠実な者もいれば、適当な者もいよう。こうした差異は避けられないのである。

なぜ、そんな差異が生じるのであろうか? 考え得るのは生存源泉と生存志向の亀裂である。

旧約聖書の創世記に有名な堕罪の記事がある。もともと神は自分に似せて人を造り、エデンの園に置いた。そこで人は蜜月のごとく神と一体であった。しかし、人、すなわちアダムとエバは蛇にそそのかされて善悪を知る木の実を食べ、目を開かれ、神を恐れるようになる。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。」(創3・10) 

ここにおいて神と人間の間に亀裂が走る。人は善悪を知るようになった。神しか知らなかった善悪を知り、神とは別に善悪を判断するようになり、神と対峙するようになった。神に似せて造られ、神と一体であった人が、神から切断され、神を恐れるようになったのである。

その結果何が起こったか? 「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」(創3・17)「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」(創3・23) エデンの園から追放され、食べるために額に汗し、労苦することになったのである。

耕すこと、労働することは、生存志向の発端である。ルソーは、労働こそが貧富の差を生み、支配被支配の関係を生むと考えた(「社会契約論における自然状態」)が、その意味で、人は善悪を知るに及んで、生存(生き残りを賭けた闘い)を志向せざるをえなくなるのである。神との蜜月においてはあえて生存を志向する必要もなかった。しかし、エデンの園の外部に放逐されたいま、生き残ることを欲望せざるを得なくなったのだ。

この創世記の記事はきわめて示唆的である。確かに人は神(生存源泉)によって生きる。しかし、その時点ですでに亀裂がある。神によって生きているということは、神と一体であることを意味しない。むしろ、神と対峙していることを意味しているのである。

もちろん、人は神を知っている。神に従うべきことも知っている。しかし、人は神の意志とは別の選択をすることも知っている。それゆえに人は神から離れ(エデンの園から追放され)、生き残りを賭けた闘いに駆り立てられる。生き残りを賭けて闘かわねばならないということは、すでに神から離れているということであり、しかし、離れている状態でも神を知っているということなのである。

神(生存源泉)を知りながら、神から切断され、生き残りを賭けて闘う(生存志向)。それが人間なのだ。それゆえ、生存志向はすでに生存源泉との亀裂を前提としている。あるいは、生存源泉はただ生存志向との切断においてのみ現れる。生存源泉と生存志向の間には、常にすでに亀裂があるのである。

■力の切断と受容、発出

生存源泉と生存志向の亀裂。これを以前「根源的実践的差異」と呼んだ。(「逆ベクトルとしての生存源泉と生存志向」)。なぜ、根源的か? それは人が生きる世界はこの亀裂の間でしか展開しないからだ。自明性において、おそらくこれ以前の次元は存在しない。生存以前、つまり、生存源泉と生存志向よりも遡り可能な自明性は存在しない。いかなる自明なものも、そして一切の理論的なものも、この生存源泉と生存志向の狭間に現れる以外ないのである。

では、どのように現れるのか? 自明性においてはあらゆるものは差異化されて現れる。これが実践的差異である。つまり、生存源泉と生存志向の狭間には無数の実践的差異が現れるのである。

確かに自明なるものは端的に人を動かす。しかし、それは人間が自動人形であることを意味しない。力は人に接触することによって人を動かすが、問題はこの接触のあり方が無数の差異を生むという点にあるのである。

たとえば、ある職能集団を考えてみよう。彼らは先祖から受け継いださまざまな伝承と技をもっており、同時に生きていくため、他の共同体と交易をしているとする。

彼ら一人一人にとっては、当然守るべき共同体の掟があろう。それは何よりもまず先祖からの伝承であろう。一つ一つの職能から共同体に属する者の生きるべき道に至るまで、さまざまな日々の振舞い方が言い伝えられ共有されているであろう。また、そこから派生して、交易における交渉の仕方や、他の共同体に対した時に行動の仕方、場合によっては戦い方に至るまでが伝えられているであろう。彼ら一人一人は共同体の中で生まれ、成長していく中でこうした掟を身につけていくのである。

このように、先祖からの伝承や他の共同体との不可避な関係から、共同体内部を駆動する力が発生し、人々を捉える。が、この力は恣意的なものではない。むしろ、先祖からの伝承に見られるように、動かし難い不変性をもって人々を捉えるのである。掟とは、この不変性を本質としている。

この不変性を「力の流路」と呼んでおく。力は確かにときに激しく流れる。しかし、その流れは流路によってあらかじめ決まっているのである。それが、この隠喩の意味するところである。また、流路は力の流れによって形成されるのであって、コンクリートの護岸工事のように前もって人工的に造れるものでもないのである。

共同体の中では多くの力の流路が張り巡らされている。掟という形で言語化されたものから、言葉ではっきり言い表せないようなレベルものまで、共同体の中をさまざまに走っている。そして、一人一人はこうした多くの力の流路にさまざまな場面でそのつど接続され、動かされることになるのである。

だが、繰り返すが、人間は自動機械ではない。無条件で直接的な仕方で動かされるのではない。では、どのように動かされるのか? 力の流路に接するとき、実は人は、一旦その力を切断した上で、あらためて受容するのである。たとえば、共同体の中で若者が先祖への崇敬行動を教えられたとしよう。初めは必ずしも得心できるわけではない。しかし、次第に身についてきて、最終的には心底受け入れてその行動ができるようになる。どんな場合にも、こうしたプロセスがあるはずなのである。

もちろん、そのプロセスが極端に短い場合もあるであろう。が、そうであっても、このプロセスは不可欠である。人間は操り人形のように直接手足を動かされるわけではない。どれほど外的な力が強くとも、結局人間は自分で動く以外ないのだ。

だから、流路を通して入ってきた力は、直接人を動かすことなく、まずは一旦そこで切断される。その上で、次に受容される。そして、この受容された力が人を動かすのである。こうして切断と受容によって、力と人間が関係するとき、その仕方を「接触」と呼ぶ。力が人間に接触するとはそういうことなのだ。

さて、この受容においてこそ、力は差異化される。先祖への崇敬行動を教えられた若者たちの受け止め方や行動の仕方は、コピーしたように完全に同じものになることはないであろう。一人一人、ニュアンスや力点や深さや熱意などに差異が現れるであろう。場合によっては受容拒否ということも起こるかもしれない。では、なぜこうした差異化が生じるのか?

それは、そもそも各人がすでに持っている何ものかがあるからである。これを「力の集積」と呼んでおく。各人にはすでに集積されたものがある。この力の集積が外からの力に変容を加え、差異を生むのである。

力の集積には二つの側面がある。ひとつは力の流路の蓄積である。いわば力の流路の記憶である。人は共同体において育ち上がる中で、さまざまな力の流路と接続し、受容する。それによって、その力の流路は各人のうちに蓄積され、自明化される。これが、掟を学んでいくということなのである。力の流路にそって人が行動できるようになるのは、それが各人のうちに蓄積されていくからである。

もうひとつは、各人の固有性である。固有性の由来はわからない。ただ、各人には他者と区別される固有なるものがあるとしか言いようがなく、それが行為における抜きがたい傾向性を生む。力の流路の蓄積も、蓄積の際の選別やフィルタリング、バイアスなど、固有性に色濃く染められる。同じ場で掟を学んでも、各人に蓄積されるものがそもそも差異を帯びるのである。

このような力の集積がすでに各人にはある。力は単に外から来るだけのものではない。力を受け入れ、力を発していくためには、各人自身が力そのものでなければならない。その核が力の集積なのである。共同体の無数の力の流路が蓄積され、かつそれが固有性によって変容されている。こうした力の集積があるからこそ、外からの力は直接入り込めず、一旦切断され、その上で力の集積を通過することで固有の差異を帯びて受容されるのである。

さて、こうしていったん受容された力は、力の集積からあらためて出てくることによって、今度は発出する力となる。それは固有化され、差異化され上で共同体へと再び発出される。先祖への崇敬行動を教えられた若者たちは、それぞれの固有性に応じて差異化された形ではあるが、自らも共同体の成員へ向かって崇敬行動を示すようになるのである。

このように力の流路と接続すると、切断、受容、発出という仕方で、再び流路に向かって力を吹き入れることになる。これをもって力の流路との接続は完結する。この完結した力の流路との接続を「行為」と呼ぼう。力の流路を通し、力と接触し、それを一旦切断し、受容し、差異化し、再び力の流路へ向かって発出する。これが行為なのである。

それによってまた、人は共同体の中に組み入れられることになる。しかし、ただ組み入れられるわけではない。差異化された仕方でである。無数に張り巡らされた流路に対し、人々はそれぞれ差異化された力を吹き入れる。成員のすべてが微妙に差異化された力を発出するがゆえに、逆に共同体全体が少しずつ変容していくことになる。伝統も伝承もただコピーされるのではない。少しずつ差異化されながら、受け継がれていくのである。

■根源的実践的差異の深淵と自生的自明性

さて、この個々の行為における実践的差異を再び根源的実践的差異と結び付けておく必要がある。確かに共同体における力の流路は多数あろう。しかし、だからと言って、それらはバラバラなわけではない。なぜなら、共同体には一方で生存源泉の力があり、他方で生存志向の力があるからである。

あらゆる力の流路は、結局、生存源泉と生存志向に由来しているのでなければならない。どちらにも由来していない力など、前近代の共同体においては、存続の余地はない。共同体におけるあらゆる力は、生存源泉と生存志向を分け持っているのである。

この分け持ち方の配分にそれぞれの力の独自性がある。生存源泉に色濃く染められた力もあろう。逆に、生存志向が多くを占める力もあろう。両者がうまくバランスした力もあろう。生存源泉が強い力は共同体の統合へと人々を駆動するであろうし、生存志向の強い力は逆に闘争へと人々を駆動するであろう。両者がバランスした力が共同体をもっとも均衡した状態に保持するかもしれない。いずれにせよ、それぞれの力は独特な仕方で両者をいかほどかずつ分け持つのであり、そこに力の多様さが現れるのである。

こうしてあらゆる力の流路が生存源泉と生存志向に由来する独自性をもつとするなら、その蓄積としての各人の力の集積も独自性を帯びることになる。そもそも、生存源泉と生存志向に捉えられているのは単に共同体だけではない。むしろ、各人一人一人も深く捉えられている。それは、力の集積そのものが生存志向や生存源泉を分け持っているからである。人によっては生存源泉の力が強いであろうし、人によっては、生存志向の力が強いであろう。しかし、いずれにせよ、力の集積を通して、人は生存源泉や生存志向に否応なく捉えられるのである。

こうして、共同体においても、各人においても、根源的実践的差異が諸力の基本的枠組みとなる。力の集積を通過した諸力はそれ自体実践的差異として現れることになるが、それらは、生存源泉と生存志向との根源的実践的差異の枠内に規定される。生存源泉と生存志向(つまり、生存)の背後はない。それ以上さかのぼるべき次元はない。生存がすべての自明性の根底を成す。つまり、生存源泉と生存志向が人が生きることのすべてなのだ。

だから、どのような力(つまり、実践的差異)も、生存源泉と生存志向の差異の狭間にしか現れない。生存源泉と生存志向をいくばくかずつ分け持ちながら、この差異の狭間の中で独自の位置づけをもって諸力は現れるのである。

人は生存源泉がなければ意味のある生を生きられない。他方、生存志向がなければ生き残っていくことさえできない。場合によっては、意味のある生のためには生き残り自体を断念することもあるかもしれないし、逆に生き残るためには生の意味もへったくれもないといったこともあろう。この2つの根源的な力の間で人は葛藤し、そして、この2つの力の間に無数の諸力が現れる。

この2つの根源的な力の差異の狭間にこそ、人は生きる。そこが人の生きる場である。しかし、この場は決して確かな大地ではない。生存源泉と生存志向がその都度どのような相貌で現れるかわからない。また、諸力がどのような仕方で出現するかもわからない。その意味で、この狭間は深淵である。

力の流路と言っても、コンクリートの溝のように固定的に認識できるようなものではない。定常的に出現する限りでそれと知り得るにすぎず、全体を網羅的に見渡せるようなものではない。それは見通し難い淵に浸されている。また、力の集積も、各人の内を覗きこめば「あそこに、ここに」と認識できるようなモノではない。それを通して出現する力によって、はじめてそれと知られるにすぎない。各人のうちにいかなる力が集積されているか、そしてそれがどのような独自性と固有性に染められているかは、きわめて見通し難いのだ。

このように、生存源泉と生存志向の差異の狭間はきわめて見通し難い深い淵である。それを完全に認識し、人の成り立ちを理解し尽くし、人を思うままにコントロールすることなどできはしない。人にとって人は見えないのだ。そして、その見えない深淵からそのつど生存源泉が、生存志向が、そして諸力が出現する。そして、ひとたび出現したら、それは自明性となる。人はその自明性をそれ以上問うことはない。それが自明である以上、人はただひたすらその自明性を生きる以外ない。見通し難い深淵と、そこから出現する自明性。それが生存源泉と生存志向の差異の狭間なのであり、人が生きる世界なのである。

しかし、見通し難いということは、全く見えないということではない。力は見て取ることができるし、言葉にすることができるし、知とすることができる。これを触知と呼んだのであった。(たとえば、「自明性を再度振り返る」)。触知の本質は何らかの仕方で力と接触している限りにおいてのみ成り立つところにあった。言い換えれば、力を受容し、発出している限りにおいてのみ知り得る知なのである。したがって、それは、生存源泉と生存志向の差異の狭間でのみ成り立つ知なのだ。

逆に言えば、この差異の狭間は、触知によって一定の認識が可能な領域である。つまり、接触する力を見て取る眼差しが人には備わっているのである。この眼差しは力の相関としてしか成り立たない。それは力を見て取るのであって、それ以外の何ものでもない。それゆえ、力として出現しないものは見て取れない。力の流路や力の集積が浸されている深淵を見て取ることは決してできない。しかし、逆に言えば、ひとたび出現した力については、生存源泉であろうと、生存志向であろうと、その他の諸力であろうと確かに見て取ることができるし、また、それを通して現れ出た力の流路や力の集積をも見て取ることができるのである。

実際、力の流路は共同体の掟や慣習として言葉になり、人々の認識となるであろう。また、力の集積は先祖から言い伝えられた物語や人間洞察となるであろう。この眼差しは共同体の中で豊かな触知を生み出すのである。

かくて、生存は生存源泉から出現しつつ、生存を志向する。言い換えれば、生存の出現は生存源泉と生存志向の出現となる。生存が生存である以上、不可避的に生存源泉が出現し、生存が志向される。生存源泉は、共同体の生の意味と根拠を不断に持ち来らす。生存志向は生の形を求め、共同体の秩序を形成し、また闘争を招来する。いずれにせよ、すべては自明なるものの出現であり、疑い得ない生の土台の出現である。こうして形成される共同体と人々の生活の地盤の全体が、「自生的自明性」なのである。自生的自明性は、まさに自生的な仕方で人々の疑い得ない生の土台を形作るのである。そしてまた、触知的眼差しは、この自生的自明性の全体を見渡すのである。共同体の掟や慣習も、先祖から伝えられた物語や人間洞察も、すべて自生的自明性によって生み出されるのだ。

さて、ここまで来て、われわれは、自明性分析の中で、近代の始まりについて語ることができる。結論的に言えばこういうことだ。まず、触知的眼差しが自立化して、力との相関から離れ、純粋に見ることとなる。それによって自生的自明性が構成的自明性となる。これが、近代を生むのである。では、どのような仕方で触知的眼差しが自立化するのか。それについて見ていこう。

2012年2月27日 (月)

生存という特権的自明性

そもそも、日常の卑近性のレベルでは、人々は自明性を前提として生きている。カントがアプリオリな総合判断が事実存在することを出発点としてその可能性の条件を問うたように、自明性分析は自明性の存在を出発点としてその可能性の条件を問う。ただし、自明性は実践的妥当性に基づくがゆえに、それは例示的方法となる。(「超越論的方法をとる自明性分析」)。

■突如性と接触

「理論性の限界点分析としての自明性分析」で出現と志向について見た。例示的な超越論的方法に基づき、もう少し見ていこう。

自明なものは、理論的プロセスなしで、端的に出現する。AゆえにB、BゆえにCといったプロセスがない。突然、Cが現れるのである。

その意味で、出現の本質は根拠付けの不在にある。その存在に関して、原因や理由や目的がない。これを「突如性」と呼んでおこう。つまり、理論的プロセスなしに突如現れる、これが出現なのである。

しかし、この根拠付けの不在は、文字通りの不在とは限っていない。たとえば、ある起業家が事業のビジョンをもつとする。それは現在のマーケットを分析する限り、どう見ても合理的なビジョンではないとしよう。ニーズも不確かで、実現可能性もありそうにない。多くの人が正当な分析の結果、そう結論付け、その事実を彼に告げたとしよう。しかし、彼にはこのビジョンが価値あるものとしか思えない。客観的分析は確かにそうだろうが、それでも自分はこのビジョンの価値を信じる。そう彼が思ったとしよう。

この例の場合、根拠付けが不在なのではない。反対の根拠付けが確かに存在している。しかし、それでも彼は自分のビジョンの価値を信じて疑わない。合理的理由による反対があっても、どうしても価値があるとしか思えない。こうしたことはあり得ることである。大げさに言うなら、人間とは時としてこうした思いに捉えられる生き物なのである。

彼はその反対の合理性を疑っているわけではない。むしろ、確かにそれはその通りと思っている。しかし、それとは別に、このビジョンの価値が彼を捉えて離さないのである。

ここに理論性と自明性の切断面がある。根拠付けが正当な仕方で成り立っていようと、それとは別な仕方で自明なるものが現れる。それが出現なのである。

自明なるものは出現する。つまり、理論的な根拠付けとは全く別に現れる。プラスに根拠付けられようが、マイナスに根拠付けられようが、根拠が不在であろうが、ともかくそれとは別に現れ、存続する。その意味で、自明なるものは出現するのである。

では、別の仕方とは何か? この例の場合、それは当の彼がそのビジョンに端的に捉えられ、動かされているということである。自明なるものは人を端的に捉え、動かす。以前、この自明なるものの持つ端的に人を動かす性質を「力」と呼んだ。(「カントの実践理性と自明性」)。自明なるものはその力で人を捉え動かすことを通して出現するのである。

人が、自明なるものの力によって捉えられ、動かされることを「接触」と呼んでおこう。人は力と接触する。あるいは、力は人に接触する。接触こそが人に自明なるものの世界を開く。自明なるものは人に接触することによって出現するのである。

(付け加えておけば、この接触から触知が生じる。たとえば、「自明性を再度振り返る」を参照のこと)。

そしてまた、この理論性との切断ゆえに、出現は削減不可能となる。たとえば、上の例で、彼のビジョンが成功しそうにない合理的理由をまわりの人たちが示し、彼を説得したとする。その理由に納得し、彼がそのビジョンを捨てたとするなら、彼の無謀な思いは理論をもとに削減できたことになる。だが、上記のように、そのビジョンを決しして捨てなかったとするなら、理論がどれほど正しくとも、このビジョンは削減できないことになる。理論性との切断とはまさにこの削減の不可能性を意味しているのである。出現は、それが出現である限りにおいては、削減不可能なのである。

■特権的な自明性としての生存

出現した自明なるものはまた志向をもつ。言い換えれば、力は接触した人間を何らかの方向へ動かす。方向をもたない力はない。自明なるものは出現と同時にすでに志向もつのである。

まず方向未定なまま出現し、しかる後に方向を定めていくのではない。自明なるものは、出現したなら常にすでに何かを志向しているのである。何かを望み、何かを欲し、何かを好む。もちろん、漠然としていることはあるだろう。しかし、何の方向もないということは、出現が出現である以上、考えられないのである。

このように出現と志向が不可分であるならば、出現が削除不可能性というどうしようもなさをもっていたように、志向もどうしようもなさをもっている。それが制御不可能性であった。

志向は好き勝手には変えられないのである。ある事業のビジョンにひとたび魅入られたなら、何としてもそのビジョンを実現したいであろう。適当にビジョンを変えることはできない。ビジョン実現がうまくいかなくても、方向を変える気にはならない。魅入られている自分を自分でもどうしようもないのである。このような意味で、志向は制御不可能なのだ。

こうして自明なるものは出現し、志向する。そして、この出現と志向によって運動する。自明なるものとは、モノのようにどこかにあるものではない。それはそれ自体絶えざる運動なのである。削減することもできず、制御することもできない運動、それが自明なるものなのである。

人は、この自明なるものの力に接触し、巻き込まれ、動かされる。この運動が生み出す動きの場をこれまで「文脈(コンテクスト)」と呼んできた。自明なるものはまた文脈を成しているのである。

さて、このような自明なるもので、もっとも原初的なものは何だろうか? いや、そもそももっとも原初的な自明なるものなどないのであろうか? それとも特定の自明なるものが何らかの特権性をもつのであろうか?

特権的なものはある。それは、これまで繰り返し言及してきた「生存」である。

では、あらゆる自明なるものの中で、なぜ生存が特権性をもつのか? 答えは簡単だ。生存がなければ他のものも存在し得ないからである。あらゆる自明なものは生存の上に存在する。生存がなければ、無である。生存が出現し、何かを志向する、この運動のうちでのみ他のあらゆる自明なるものの運動も可能となるのである。

アガンベンにおける「剥き出しの生」」や「原的な力としての生存志向」で見たように、生存とは、もともと剥き出しの生であり、端的な生の事実である。それはおそらくもっとも厳密な意味での出現である。なぜなら、われわれは気が付いたら地上に存在していたのであり、何らかの説明可能な合理的理由によって生存しているわけではないからである。それは文字通りの突如性であって、この世に突然存在していたのである。付け加えれば、生存が失われるのもまた突然である。人は理由もなくこの世界に現れ、理由もなくこの世界から消えていくのである。

その意味で、生存ほど出現の定義を満たすものはない。そして他のあらゆる出現は生存の出現を前提とする。それゆえ、生存は特権的な自明なるものと言えるのである。

(ただし、人間には自死という可能性がある。自死は出現の特徴である削減不可能性に反する。その意味できわめて特異である。また、その自死の可能性を帯びている生存も自明なるものとして特異である。この点はまた別の機会に論じたい)。

■生存源泉(出現)と生存志向(志向)

たが、付け加えるべきことがある。これまで生存源泉と呼んできたものである。生存は端的な出現である。確かにわれわれは理由なく生存し、また理由なく生存を失う。それは確かにそうとしか言いようがない。しかし、人間は太古からそれに耐え得なかった。むしろ、生存の出現に源泉を見出した。それが生存源泉である。

生存源泉とは神々や祖先や自然などであった。(「前近代における生存と神々」)。人間はそうしたもののうちに生存の源泉を見出した。生存は突如出現したのではない。神々や先祖のもとからやってきたのであり、またそのもとへ帰るのである。理由はあるのである。

しかし、この理由は合理的なものではない。なぜなら、神々や先祖は客観的に証示できるようなものではないからである。神々は本当にいるのか? そう問うても客観的な証拠はあるまい。理論的な論証もできまい。とすれば、それは最後は、いるものはいる、としか言いようがない。つまり、生存源泉自体が自明なるものとして出現するのだ。

とすれば、生存出現の源泉を神々や先祖に見出したとしても、神々や先祖自体が再び出現するということになる。どこまで行っても出現。結局、自明なるものの出現の領域にいること自体、何ら変わりのはないのだ。つまり、生存源泉は生存の合理的理由など全く説明してくれない。むしろ、それは出現、力、接触といった自明なるものの領域に再び連れ戻すのである。

かくして、人は生存源泉に接触し、そこから生存を与えられ、力を得る。生存源泉が生存出現の源となる。が、その生存源泉が出現するものである以上、結局人は出現のもとで生きることに変わりはない。生存の出現は生存源泉の出現に覆われるのであり、生存源泉との接触こそが、人の最も根源的な次元になるのである。

さて、こうして与えられる生存がまた志向をもつのである。われわれが生存志向と呼んできたものがまさにそれである。「「神々」から「情報」へ」などでも見たように、剥き出しの生はそのままでは生であり続けることはできない。生が人の生であるためには、「何者か」にならなければならない。一族の一員であったり、特定の職能集団に属していたり、ともかく集団の中で何らかの「形」を纏うことによって、生は初めて人の生となるのである。その形が生形式であり、生存志向は生形式への力として駆動されるのである。

しかし、志向は出現を前提としている。それゆえ、生存志向も生存源泉を前提としている。つまり、前近代における生存志向は生存源泉の力によって本質的に規定されているのである。

もし神々を生存源泉としているなら、さまざまな氏族や部族は、神々に忠実に生きようとすることによってのみ集団として自らを維持できるであろう。もし先祖が生存源泉であるなら、ある職能集団は受け継がれた先祖の伝承に忠実である限りにおいてのみ自らの「形」を維持できるであろう。生存源泉を無視しては生形式は成り立たないのである。

生存源泉を同じくする人々はすべてその生存源泉の力と接触している。その自分たちに触れる力を無視して、その集団の内で生きることはできない。特定の部族が神々を祀る特定の行動をとるのも、特定の職能集団が特定の職能様式をとるのも、生存源泉の力によって駆動されているからであって、近代におけるような合理的理由によるのではない。前近代においてはこの次元では合理的理由など意味をなさない。生存源泉に由来しているかどうかだけが、その「正統性」を保証するのである。

こうして生存は、生存源泉を出現とし、生存志向を志向として、すべての自明性の前提となる文脈を成すことになる。生存という文脈こそがもっとも根底的であって、この生存の運動こそが、すべての自明性の運動を規定するのである。

そしてこの根底的文脈の運動によって形成される自明性の全体が、「自生的自明性」であった。(「自明性の差異から生じる理論性」)。この自生的自明性こそが、前近代における人々の生活の基盤を成すのである。合理性は第一義ではなく、あくまで生存源泉との接触に由来する力が、人々の生活様式を疑問の余地なき当然なものとして形成する。それが自生的自明性なのである。(なお、この自生的自明性と生存志向を合わせて「基礎的自明性」と呼んだのであった)。

さて、近代において、この生存のあり方が根底から変わるのである。たとえば、先のロックの社会契約論で言えば、生存源泉は自然権となり、生存志向は社会契約的な人為的ルール基づくことになる。(「社会契約論における構成的自明性の誕生」)。

そして、これによって、自生的自明性が構成的自明性に変化するのである。

このことについて、さらに見ていくが、そのためには次に実践的差異について見ておく必要がある。

2012年2月26日 (日)